2019.02.15 Note

前提に検討の余地があるのでは、そう言いたくなる時があります。善悪や倫理や法律などもそうですが、それってほんとにそうなのかな、問い直したほうがテーマ的に面白いとおものだけど、というような。

面倒くさがる人もいるでしょう。まあ気持ちはわかります。人は無意識のうちに一貫性を求めるもので、過去の決断と違うルールで決断してしまうと過去の自分を否定する気になからかなと思います。もうひとつは変更によってサンクコストが発生してしまうからではないでしょうか。とにかく前提を問い直すのはたしかにコストがいることです。

しかしコストがかかっても止めずに話ができる相手もいます。仕事の企画会議も面白いものが生まれるように思っています。色々と自由に並べることのできる場かどうかが変わってくるわけですし、出るアイデアに違いもあるように思います。非倫理的なことであっても思考実験をすることまで許されないわけではないのです。しかしたとえばブレストは自由な発言が推奨される場と言いますが、実際には本当に自由な発言ができるケースというのは極めて少ないと感じます。(もちろん、無意味な誹謗中傷や意見の否定を除いても、という話です)

そのような前提を問い直すようなディスカッションその行為ひとことで説明する言葉を持たなかったのですが、『考えるとはどういうことか』という本を読んで、それが『哲学する』ということであると説明してあるのに出会ってなるほど、と思いました、という話です。

本書には、『哲学を学ぶ』ことと『哲学する』ということは異なることだと書かれています。知識を学ぶことは哲学することの助けにはなるけれども、哲学するということは態度であって知識は必須のものではないと。だから哲学する態度を身につけて対話に挑むならばそれは子供であれ大人であれ老人であれコミュニュケーションが可能なら対話が成り立つものだと。そういう対話をするための場/ツールとして『哲学対話』というものが紹介しています。

すごく端的にいうと『前提を掘り返し続ける思考をする』が『哲学する』ということなのだと理解しました。そう考えると、偉大な哲学者の言葉を無思考で受け入れてしまうことはある意味で哲学することと最も離れてしまう行為にほかならないのでは、という気がするのは面白いですね。もちろん過去の哲学者の思考を学ぶことを否定しているわけではないということは理解してもらえると思います。

話を戻すと、哲学できるかどうか、これは頭のよしあしとは全然関係ないと確かにおもっていて、もちろん僕や誰かが持っている属性の全てを完全に捨て完全に普遍的な存在になることはできないのであくまで個人としての主観に立脚しつつもそのことを自覚しながらメタ的に自分や他人を見ながら話せる、そういう人はあまり怒らないというか喧嘩にならない気がするし、前提にたちかえった議論ができるし、話しててとても有意義なものだと感じます。

そう考えると、僕がこの人は面白いし信頼できる人、と思っている人は哲学することのできている人なのかもしれません。ちなみに意見が同じ過ぎても共感のみを求めているわけではないのでつまらないので、『異なる主義主張を持っているけれども』『哲学することができる』相手というのが一番話していて面白いような気がしました。

話題はあらゆることに及びます。自分や社会の前提を問い直すような問いかけや自分と違う主張を互いにフラットに議論できる面白さということですからそれはむしろ高尚で抽象的なことがらよりも自分たちのみのまわりの一般社会にあること、働き方であったり、恋愛であったり、結婚であったり、法律であったり、そういう話題に対して前提を問い直すような自分の違和感を話し合うことは既に『哲学する』ということだとなのだと思います。

そして表題になるわけですが、仕事をするならなおさら、そういうチームである、ということの重要性を感じるわけです。そういう対話ができるチームと、そうでないチーム。結果も違うと思うし、一緒に仕事する面白さも違うと思うのですよね。新しいチームを作るのもよいのですが、既存の職場のチームで本書の哲学対話をやってみるのも面白いのかもしれないなと思いました。

Photo by Shane Rounce on Unsplash

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