
僕の誕生日にあたって祖父母が手紙をくれた。
僕は父方とは正直少々疎遠だ。
だけど、母方の祖父母はとてもよくしてくれた。
今でも離れているけどよくしてくれているし、月に数回は電話で話す。
子供の頃は歩いて1分の所に住んでいたからほぼ毎日行っていたし
それはよくしてくれたという距離感ではなく
親が共働きだったからむしろかなりの部分育ててくれたと言うほうがいいかもしれない。
小さい頃は親よりも祖父母と過ごす時間の方が多かった気もする。
そんなふたりは今でもぼけたりすることなく、大きな病気をすることもなく、
さすがに年のせいで体はあちこち調子悪いけれども
介護も必要なくふたりで普通に暮らしている。
それがどんなにすばらしいことかと。
どれだけの偶然が重なってその普通が今あるのだろう。
ふたりがそうあるために僕は何かをしたわけではない。
全く何もする事なく、ただただそれはあたわったもので、それはとても不安になる。
今の自分は色々なものを手に入れたり手に入れられなかったりもちろんしているけれど
それらは基本的には能動的に手に入れに行ったり
または能力不足により手に入れられていないという思考だ。
でもあのひとたちを見るとどうだろう。
最終的に高齢になっても心身ともに充分に健康で自立した生活をふたりで送っている事、
そこにはもちろん本人達の努力、ふたりの子供である僕の親の母親の努力、
そういったものが全くないとは思わないけれども、
幸いな事に健康でいてくれる祖父母と、
不幸にも健康を害して亡くなってしまった祖父母の同年代の方々の間にどういう違いがあったのかというと
そこにはもはや努力して獲得したものなどとうに越えて
その多くはほぼ無限の偶然の積み重ねの結果にすぎないのではないかとそう思う。
若いうちは手に入れる手に入れないという思考がどうしても中心になるけれども
最後残っているのが手に入れたものではないというのをみて
自分が持っているもの全て自分で手に入れた気持ちになってしまっている自分に気付いた気がした。
育ててもらったこの人達に僕はなにができるんだろう。
自立してしっかり生きることが恩返しであるとは思うしふたりもそれを望んでいるとは思いつつも
それは離れた土地で頑張るということであり必然的に会う機会は減ることになる。
話す機会も減ることになる。
そこには寂しさはあれどしかたないという気持ちとそれでいいのかなという気持ちが同居している。
本当は僕が子を作り祖父母が親が続けてくれたサイクルを残して行くのが
生物として最後に最も大切なものである「健康に生きる」ということを全うしているふたりに対してできることなのかなと思う。
(まあいまんとこ嫁βもいないんだけど。ごめんじーちゃんばーちゃん。弟は嫁αくらいはいるらしいので期待している。)
もうひとつおもうこと。
たまに帰るだけだとどうしても昔を懐かしむのと
近況報告だけで終わってしまう。
昔話ばかりしてうっとおしい年寄りも世の中には沢山いるのだけど、
ふたりは全然昔話をしない。
ふたりの人生、歩んできた道もなんとなくは知っているけど本人の口から語られたことはそれほどない。
だからこそ興味がある。
本当に深い話をしてみたいけどどうしたらいいかわからないというのもある。
あまり話したくないのかもしれない。
身近な人の中で最も長く世界を見てきた人は
今の日本を、今の世界をどう思うのだろう。
聞いてみたいけどどう切り出していいのかわからない。
祖父は結構苦労してきた人で、戦後学歴がないながらに公務員になって
大変真面目に働きながら札幌の数十年を高度経済成長時代とともに見てきた。
それゆえに非常に真面目な部分と
びっくりするくらい逞しい部分が同居している。
普段は好々爺なのだけど何か起きた時に全然動じない。芯がある。
そういう強さがあの世代にはある。
これは僕のなかにあるひとつの憧れなんだと思う。
とにかく、今僕はどうしてもインターネットにずぶずぶで、
インターネットの世界でどう差別化をするかを考えるにつけ
本読んだりしてできるだけインターネットではないメディアからの情報を入れるようにはしているけど
そもそもふたりが生きてきたその情報、経験、そこから語られるものというのは
ネットにないどころか今の僕たちの世代にはないものだから
そもそもなかなかネットにのらない情報である。
インターネットで価値を出せる情報がネットにない情報であると考えるから
そもそも場所やクラスタの違いですらなく
時間の違いというのはすごく意味がある。越えられないものがある。
いやもっと単純に、残念ながら人は死んでしまうから、残してほしい。
そういう世代にこそいま、デジタル化した情報をばんばん残してほしいと思う。
それをどう捉えるかはあとのひとの問題ではあるが、
まずはアーカイブすることに意味があると思う。
そう色々考えて、まずはふたりの、最も身近で最も長い時間を見ているふたりの、
できるだけ話を聞きたいと思っている。
そしてそれができるチャンスがあるのは、本当にあたわったものなのだと実感するのだと思う。
愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶかもしれないが、
歴史もまた人が描くものだし、そこに描かれる事実らしきものも所詮生きた人の目を通した事実でしかないし、
要は歴史とは多数の経験の集約だ。
集約だからこそ個の経験から学ぶと誤るものも平均化されて集合知的に最適化されリスクを避けられる。
それを活かすか、活かさないか、あえてその答えを避けるかは別として、まずは知ること。
知りたいなと、多分自分の年齢もあると思うのだけど、
最近すごくおもうのです。